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【歴史】各国の歴史を超簡単に書いてみた編 インド

以前に書いた、「各国の歴史を超簡単に書いてみた編」がアクセス数多かったので、本日からまたいくつか歴史解説系記事を書いていく。

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本記事は、インドについて超簡単にシンプルに書いていく。

それではさっそく解説していく。

 

インダス文明(紀元前2500年~)

紀元前2500年ごろに、インダス川流域においてインダス文明が形成された。

インダス文明をどの民族が築いたかは歴史的に定かではないが、現在のインド及びパキスタン周辺にインダス文明は形成されていた。整理された都市網や水道設備などが整っている事から、都市文明であった事が省察されている。

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アーリヤ人の侵入(紀元前1500年ごろ~)

紀元前1500年頃から、南ロシアからアーリヤ人が侵入。

鉄器がもたらされ、森林開拓と農業が推し進められていく。

当時のアーリヤ人は、バラモン教を信仰していた。

バラモン教聖典を読めるブェーダを最高クラスの身分として、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの順で身分がランク付けされていた。

〇ヴァルナ(四大身分)

ヴェーダ(祭司)

クシャトリヤ(貴族・武士)

ヴァイシャ(平民)

シュードラ(隷属民)

このヴァルナこそ、現在のインドにおいても根強く残っているカースト制度である。

※法で禁じられてはいるが・・・。

 

尚、アーリヤ人が侵入して新たな文明が築かれていく過程において、領土争いが各地で勃発する事となる。

「国家」という概念が形成される以前の時代は、領域を巡って争う事はごく自然の事である。現代においても、そうした動きが完全に途絶えたわけではないのだが。

前4世紀 マウリヤ朝

世界史あるある。〇〇朝が多すぎて混乱する事が多々ある。支配する王朝がずーーっと同じという事も早々ないので、致し方ない事である。一つずつ整理していこう。

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マウリヤ朝

・マガダ国がアーリヤ人がわいやわいやと争っていた複数の国を統一。

北インドを初めて統一。

・マガダ国のチャンドラグプタが王位に就く。

マウリヤ朝3代目アショーカ王

→法による支配の宣言。石柱碑・磨崖碑を全国に建設。現在のインドの大半の地域を支配していた。

☆この間、ギリシャから遠征軍が攻めてくる。

ギリシャも統一に向けて戦国の時代。

前2世紀~後3世紀

マウリヤ朝は、アショーカ王の死後、急速に支配力を失っていった。

その後は、なんやかんやで色々な場所で小さい国が現れては消えを繰り返していた。

ギリシャやらイランからちょこまかと民族が侵入していた時代。

現在のアフガニスタンにあたるバクトリアと呼ばれる地域にて、クシャーナ朝北インドを統一した。南インドデカン高原周辺)では、ドラヴィダ人サータヴァーハナ朝を建てた。

 

クシャーナ朝

・インド全域を支配していたわけではない。

 

サータヴァーハナ朝

・インド洋において、ローマ帝国季節風貿易を盛んに行っていた。

グプタ朝 4世紀~

クシャーナ朝は、ササン朝ペルシアによって3世紀に滅ぼされる。

その混乱の最中、グブタ朝が建てられる。

 

グプタ朝

・インドのほぼ全域の支配。

マウリヤ朝の復活や!首都も同じところにおいたる!(パータリプトラ)

・ついでにワイもチャンドラグプタと名乗ったる!(グプタ朝の場合、チャンドラグプタ"1世"とつく)

ヒンドゥー教を定着させるで~

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インドはイラン人の侵入によって、彼らに支配されていた。アーリヤ人復権は長いスパンを経てようやく復活した。

インド文学や美術、彫刻などの芸術が盛んであった時代でもある。

グプタ朝は、5世紀後半ごろから衰退。遊牧民に侵入されたことが原因。

7世紀~13世紀

7世紀初頭、ヴァルダナ朝が建てられる。

ヴァルダナ朝はわずか一代で終了。その後はラージプート時代に突入。

それぞれの地域で、それぞれの王朝が細かく乱立。分裂したり争ったり。

ちなみにラージプートとは、インドの北西部にあるラージャスターン州に居住して民族の事。

10世紀。アフガニスタン地域から、ガズナ朝やゴール朝が北インドに度々侵入。

ゴール朝は北インド全域を征服。この過程において、インドにイスラームがもたらされた。(以前はバラモン教やら仏教やらヒンドゥー教の時代だったが)

インドの古代宗教について - 簡単ブログ

 

〇デリー・スルタン王朝

ゴール朝が北インドを征服。デリーに総督府を置いた。

デリー総督府に任命されたアイバクは自分をスルタン(王)と称する。

アイバクは奴隷王朝を建てる。中々にネーミングがえぐい。

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デリー・スルタン王朝

奴隷王朝

・ハルジ―朝

トゥグルク朝

・サイイド朝

・ロディ―朝

尚、これらの王朝の時代においてインドではイスラム文化が浸透していく事となる。

インドの宗教や文化変遷は別の記事に今後まとめることとする。

 

〇その頃南インドでは・・・

ヴィジャヤナガル王国が繁栄。ヒンドゥー教の国であった。

ムガル帝国 14世紀~

デリー・スルタン王朝のロディ―朝は、ティムール家のバーブルに滅ぼされた。

その後1526年にムガル帝国を建国。1858年に至るまで支配を続けた。

最初は統治が混乱していた。ヒンドゥー教徒の反乱、アフガン人の侵入など混乱の時代が続く。

 

16世紀後半、3代目アクバルの時代に支配が確立される。

アクバルは、ヒンドゥー教徒との融和を推進。

イスラーム教徒から税金を徴収するジズヤ制度の撤廃などを取り決めた。

尚、ジズヤ制度は6代目の時代に復活。案の定猛反発を食らう。ヒンドゥー教の国は相次いで独立。

ヨーロッパがインドに進出(15世紀末)

大航海時代以降、ポルトガルを筆頭にヨーロッパ諸国がインドにやってくる。

イギリスはインドを拠点として、東南アジアと香辛料の貿易に着手したかった。

一方で、そうした欲望は他の国も同じ。オランダやフランスと、インドにおける利権を巡って度々争う事になる。

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〇イギリス東インド会社

オランダ東インド会社

・世界初の株式会社

・イギリスと、東南アジアの香辛料貿易の利権を争ってバチバチ。(アンボイナ事件)

→オランダ勝利。イギリスは方向転換。インドとの貿易に専念。

〇フランス東インド会社

・イギリスと利権争いで度々戦争。こいつら、よそ様の国で何やってんだ。

3つの東インド会社がインドに作られた。

 

イギリスはインド征服を着々と進行させていく。

鬼畜イギリスくん

世界史において数々の蛮行を繰り返してきた紳士の国・イギリス。

インドにおいても悪事の限りを尽くした。

インドは綿工業で儲かっていた。イギリスへ綿布を輸出していたのだ。

イギリスは当時(18世紀頃)貿易で赤字を出していた。

これをどうにか解消したい。よし、じゃあ綿布を大量生産して売ろう、と。

インドの貿易独占権を廃止すればいいじゃん、と。議会で可決させた。

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安く大量生産された綿布がインドに大量輸出され、インドの綿工業は衰退。

東インド会社の課税もあいまって、多くの民衆が失業し、貧困に陥った。

当然インド人はブチ切れる。インド大反乱が起こる。

イギリスに鎮圧され、1858年以降本格的なイギリスによるインド支配が始まった。

インド独立

20世紀に入ってから、イギリスからの独立を巡って様々な運動が沸き起こった。

第一次世界大戦では、イギリスがインドからの協力を目的として、戦後の自治を約束した。が、さすがはイギリスくん。その約束を守らず、反対した民衆を虐殺。

ガンディーの統制のもと、非暴力・不服従を掲げ、完全なる自治を求めた。

1935年には、新インド統治法が制定される。あくまで制限付きの自治が容認されたにすぎないイギリス側の妥協ともいえる法であった。

インドは第二次世界大戦後、イギリスに戦後の独立を約束された。

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1947年に、イスラム主体のパキスタンと、ヒンドゥー主体のインドが独立。

なおこの2国は今でも仲が非常に悪い。

1950年にインド共和国成立。

最後に

読んでいただきありがとうございました。

 

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