人生に一度訪れる成人式。学生時代、あるいは人生の前半の一つの集大成となるイベント。地元の人間関係、これまで培ってきた友好関係などがモロに楽しさのバロメータに反映される。
私はといえば、小中学校の頃決して目立つタイプではなかった。深く、未だに付き合っている友人はいたものの、顔が広いタイプではない。
だから、私は成人式に行かないつもりだった。
親しい友人とは定期的に会ってるし、わざわざ行く意味を感じられなかった。
と、言えば聞こえは良いが、単に中学の時イケてないから、それだけの理由である。
それに私は成人式後の同窓会に誘われていない。じゃー、まあ行かなくていいか。そんな気持ちになっていた。
だが新年を迎え、お正月気分が抜け始めたころに迷いが生じた。
本当に行かなくていいのか・・・?と。
「ぼっち 成人式」で検索し、まとめサイトのスレを見つつギリギリまで迷った。
結果、行く事にした。行くだけ行ってみるか、みたいな。
淡い期待を抱きつつ、スーツ姿で自転車に跨り、会場へ向かった。
会場へ着くと、おびただしい数の人だかりができていた。TVで見たようなあの光景、特攻服を着てパンチパーマなテンプレヤンキーや、バイクのけたたましい音などが耳に入ってくる。そうそうこんな感じだよな、成人式って。
程なくして友人たちと合流し、会場にいる中学時代のクラスメイト達としばし再会を楽しんだ。その後、形骸化したお役人のスピーチをスマホ弄りながらやり過ごし、
再び外で談笑を楽しんだ。ちなみにスピーチの最中にヤンキーが茶々入れてた。おーおーやってんなぁーと。
その後、かつてのクラスメイトと写真などを撮り、かれこれ1時間ほどした後に、私は自宅へ帰った。先述の通り二次会には誘われていないので直帰である。幸か不幸か、両親も弟もそれぞれ出かけていて、気まずい展開は避けられた。
いつも通り、勉強したりyoutube見て、あっという間に夜を迎え就寝。
そんなこんなで私の成人式はあっけなく終わった。
後日。
Twitterやインスタに同窓会の写真がupされているのを確認し、またここでも胸が痛む。
画面の向こうには楽しそうに肩を組み、酒を飲んでいる男女が映る。
「なぜ私はここにはいないんだろう・・・?」
「私の20年間の人生は失敗だったな。」と思った。
そうした後悔や負の感情に襲われ、人生やり直したいとその時思ったりなどした。
中学時代、(今も本質的にはさほど変わっていないが)人付き合いが嫌いだった。
表面的に適当に人と接して、家に帰って本をたくさん読んだりネットばかりやっていた。もっと皆と仲良くしておけばよかった。
そのツケが、時を経てここに回ってきたわけだ。因果応報。
つまり今置かれている状況は、昨日までの自分の生き方が反映された結果というわけだ。そんな当たり前の事を痛感したのが「成人式」だった。
これを咀嚼するのには精神的苦痛を伴うものだったが、生き方を見直すきっかけにもなった。
「自分はどういう人生を送りたいのか?「なぜそれを望むのか?」
「それを実現するためには何をすればいいのか?」
人生の理想を思い描き、そこから逆算して、自分の行動を考える。
成人式の時、輪の外から羨ましそうに彼らを見つめた悲しい体験を無駄にはしたくない。
悲しい事などないほうが良いに決まっているのだが、起きてしまった以上、それを糧にして、前に進んでいくしかない、そう思った。
中学時代人付き合いをめんどくさがった結果、成人式クソつまんなくて、皆が羨ましく思えたりした。なんであの時もっとクラスメイトと仲良くしなかったんだろうと強く後悔した。だからこれからの人生で後悔を無くすために、しっかりと自分の人生と向き合って生きようと思った。
中学時代、ぼっちとか陰キャだった人は成人式行って傷つく可能性もあるけど、私は自分の人生を考え直すきっかけになったので意義があったっちゃあったかな。
結論として、中学の時イケてなかったとしても、行くだけ行くのはアリ。
ただ。あくまで、成人式は人生の通過点に過ぎない。小学生時代から成人を迎えるまでの14年間の生き様が反映されたものでしかない。地元はあくまでも1つの世界で、狭い世界だ。
新たなフィールドはそれこそ世界中にある。今後の人生を楽しく生きていけばそれでよい。そう言い聞かせ、無理やり前を向いた当時20歳の私であった。