日本社会においては、常識を守ることが何より重要である。
が、その常識は必ずしも絶対的に正しいわけではない。それはあくまでいくつも存在する価値観や規則の1つでしかないからだ。
- 1.それぞれの「常識」
- 2.本質的な事を考える方が大切
- 3.非合理的なルールの数々
- 4.ヒトは本来自由意志を持った存在である
- 5.道徳の授業で「正しい一つの解答」を求める教師
- 6.思考停止してまで生きる意味とは
- 7.常識の破壊方法について
- 8.最後に
1.それぞれの「常識」
各コミュニティにはそれぞれ独自のルールが存在する。そしてそれは価値観の違い故に、時としてコミュニティ間において対立しあう。
マクロな視点で見れば、異文化間における軋轢であり、ミクロで見れば異業種間における認識のズレがそれにあたる。
今まで自分が生きてきた中で身に着けてきた「常識」に染まりすぎると、時として新たなコミュニティに飛び込むときに動揺してしまい、受け入れがたく感じてしまう事がある。再三いうが、常識とは絶対的なものではないのだ。
2.本質的な事を考える方が大切
従って、本質的なものを学ぶ姿勢が大事である。換言すれば、「普遍的かつ不変的なもの」だ。
例:Aの会社→お客様には常に明朗快活に接するべき Bの会社→接客態度はそこまで重要視はしていない。とにかく製品の質にこだわるべき。
↑の共通点かつ本質的な部分とは何か。
手段は違えど、人を喜ばせる事に価値を感じている。
表面的なモノに囚われず、根っこの部分について考える事が大事。その行動の目的は何か?その行動によって何を成し遂げたいのか? と、いうことを常に考える必要がある。
3.非合理的なルールの数々
「え?なんでダメなの?」と小一時間ほど問いただしたくなるような状況に直面する事がある。合理的な理由があれば納得できるのだが、「とにかくダメなものはダメ!」の一点張り。なんでやねん。
昔、某受験予備校のアルバイトの面接を受けた時、面接官が面接の準備をしている間、僕が水を飲んだら、「許可なしに水を飲むんじゃない」と注意されたことがある。水を飲むのに許可もクソもあってたまるか。どこが失礼に当たる行為なのかまったくもって意味が分からない。
高校時代、スクールバッグをリュックのように背負っていたら、朝校門の前に立っている先生に結構マジのテンションで叱られた事もある。カバンの持ち方にまでケチをつけてくる。これも謎。
もっと色々な事に寛容になるべきだと思うし、ダメな事の理由が欲しい。
4.ヒトは本来自由意志を持った存在である
人間は本来自由な存在だ。自分の意志に則って行動すべき。とはいえ、これは構造的な問題でもある。無意識のうちに社会の枠組みに囚われて生きるのが人間だからだ。とはいえ、~すべきだの押し付けはウザイ。
「〇〇の状況下では〇〇しなきゃいけない。」みたいな。あらゆる状況において、いくつかの選択肢があってその中から選ばなきゃいけないみたいなさ、その選択肢から外れた行動を取ると、関係ねえ外野がギャーギャー騒ぐし。
日本の教育システムの弊害であろうか。軍隊教育の名残りでとにかく画一的である事が求められて、先生が求めている答えを出すっていう事が絶対的。これが恐らく影響している。
5.道徳の授業で「正しい一つの解答」を求める教師
昔Twitterでバズっていて、戦慄したツイートがある。小学校の道徳の授業で、ある男子児童が、先生の望む答えを言わなかったことがあるという。その先生は「ある1つの答えに導くのは難しい」と嘆いていたという。
道徳の授業で、多様な考えを認めないでどうする。もっとあらゆる考えを認めるべき。「みんな違って、みんないい」のである。もちろんヘイトスピーチとかは厳しく取り締まる必要があるが。
6.思考停止してまで生きる意味とは
シンプルに言えば「思考停止」である。この世に存在する価値観を疑いもせず受け入れ、かつそれを絶対的なものとして認識している人が多いからだ。「自由になれ!」「常識にとらわれるな!」とかいうつもりもないけど、あらゆる価値観を1から解体しなおして、自分にとって大事かどうかっていうのを考え直す必要はあるなーと、常々感じている。
7.常識の破壊方法について
自分の意見や考えをハッキリと持っておくことが必要。他人から理不尽に批判されたり、納得いかない事を言われたら、理由を簡潔でいいから説明するしかない。
批判する人って言い返される事を想定しないから結構効き目はある。それに自分の行動、ひいては生き方に理由とか信念があれば、他者からとやかく言われてもあまり気にしなくなる。
逆に、自分の軸がないと、他人から言われたことを、気にしすぎたり、それを無理に取り入れようとして、あたふたしてしまう。
8.最後に
皆が楽しく伸び伸びと生きる事のできる社会になれば良いと感じています。
読んで頂きありがとうございました。